TOEIC原理主義者の死角とジレンマ

年間2,400,000人。
これは昨年のTOEICの受験者数だ。
1979年の登場から右肩上がりに受験者数が増えてきたTOEIC。

 

大学生や社会人にとってもはや、「英語学習=TOEIC」の図式はすっかり定着した。
企業側の採用活動や、従業員の英語力の評価基準として採用されているのは8割以上がTOEIC。一昔前の英検の勢いは失われ、過去の遺産になりつつある。

 

今、英語力のベンチマークは常にTOEICスコアで示される。

 

試験としての質を考えた時に英検が悪い訳ではない。
むしろ筆者は対面で面接をする英検の方が英英語力の指針としては優れているようにも思う。

 

しかし、問題は試験としての質よりも、受験者の数。
一番多く受験されている、という事実が試験の価値を決める。
ちなみに英検の昨年の受験者数は全部の級を合わせて150万人だ。

 

さて、規模や業界を問わず多くの企業が海外に出ていく中で、TOEICが一気に広がり、英語学習がより身近なものになった。
しかしネガティブな影響も顕在化している。

 

TOEICの抱えるジレンマと、パラドキシカルな正攻法。

 

僕らはTOEICとどう向き合うべきなのか?

 

 

目次

“使えない” TOEIC 至上主義者の実体

 

toeic_fundermentalist

 

TOEIC730点ー。

 

高いだろうか?

 

低いだろうか?

 

一般的に、就職・転職市場ではハイスコアに分類され、「英語が得意な人材」としてのベンチマークとなる事が多いスコアだ。
英語での業務(メール・電話でのやり取り、受発注、クレーム処理などなど)はそつなくこなせる、と見なされる。

 

しかし、実体は違う。

 

筆者は現職で商社、前職は都内の中小メーカーでの海外営業職だった。

 

前職では若い人材が不足していて、英語を使える若者はほとんどおらず、あとは50歳以上のオジ様世代ばかり。
しかし、その”オジ様達”はかなり高い英語力を持ち合わせていた。
TOEICなんて受けた事もない世代。だけど、みんな学生時代から英語を得意としていて、さらに海外駐在を通じて磨きをかけたのだ。

 

一方で、今の職場では20代後半〜30代が非常に多い。
前職では同じ世代があまりいなかったので、移った時は新鮮だったのだが、1つ驚いた事がある。
商社の海外向けチームだというのに、あまり英語が上手くないのだ。

 

GM(普通の日系企業でいう、事業部長クラス)いわく、私が働いているチームで採用活動をする場合、TOEIC700点を暗黙のボーダーとしているらしい。

 

逆をいうと、私の同僚は皆、TOEIC700以上はマークしているという事になる。

 

しかし、実際には電話一本まともに取り次ぎできない人が何人かいる。

 

“◯◯さん、アメリカの方から電話です”

 

“誰から?”

 

”あー、ちょっと聞き取れませんでした”

 

ヒドい時には

 

“◯◯さん、海外から電話です”

 

“は?どこの国の誰からですか?今、立て込んでるので折り返すから、名前と連絡先聞いておいて”

 

“いや、電話でて貰っていいですか?”

 

と、押し付けて来る。
要するに、相手の名前と連絡先を聞き出す事もできないのだ。

 

メールを書いても言葉が足りない。
あるいは、ストレートすぎて失礼な文面になっており、相手から余計な怒りをかってしまう。

 

海外との電話会議に人を呼びつけておいて、会議中、終止無言でメモすらまともに取れていない人もいた。

 

新入社員の場合、いくら英語ができても知識がないので、こういった事になる場合もある。
しかし、上記はいずれも私と同じくらいか少し上のある程度の年次の人達だ。

 

TOEIC700点の実体はこんなもんである。

 

要するに、業務を英語で遂行していくにあたり、支障がありまくるレベルなのだ。

 

世の中一般では「英語で仕事をする上で問題ない」とされているのに、どうしてこんな事が起るのか?

 

2つの要因がある。

 

高過ぎる期待値

 

日本の企業はTOEICスコアと英語力の相関について認識が甘い。
700点というのは高いようで、低い。

 

私は社会人になる時、TOEICスコアは820点だった。
正直、電話では何度も聞き返したし、上手く言いたいことを伝えられない場面も最初は多かった。

 

なので、社会人1年目は学生の頃よりも勉強した(残業もなかったし)。
そうしているうちに、段々と上手くコミュニケーションを取れるようになってきて、気がついたらTOEICも900点を超えた。

 

英語ができる人が書いているブログか何かで読んでヒドく共感したのが、”TOEIC900点でやっとスタート地点”だという事。

 

TOEIC700点や800点というのは、「英語でスムーズに業務が行える」とはほど遠い。
残念ながらそれが現実だ。

 

「スムーズに」というのをどう捉えるかは人それぞれかも知れない。
でも、仮に「日本人と日本語で仕事をするように」という前提があるとすれば、とても足りないレベルだ。

 

筆者は、TOEIC700点というのは、

 

・メールの読み書きはある程度問題なくできる
・電話や対面だと、たどたどしくなり、相手の言っている事が分からない事がよくある

 

といった評価が妥当と考えている。

 

多少間違っていても、自分の伝えたい事をどうにか伝えるー。

 

そういった姿勢を美徳とする風潮もあるが、商社の海外向けチームではあってはいけない事だと思う。
メーカー技術職の人が、どうにか英語で会話するのは、筆者は個人的にはなんか熱いものを感じるし、カッコいいと思う。
だけど、海外営業とか商社マンというのは、対面、電話、メール、資料、とあらゆる手段で顧客とコミュニケーションを取るのが仕事だ。
“日本人だから多少英語が下手でも仕方が無い”という甘えを許して貰えるポジションではない(実際はそういうマインドの人間が多いけど)。

 

よく、”英字新聞をスラスラ読む”とか”映画を字幕無しで見る”、といったことを「英語ができる人」の条件にしたがる人がいる。
もしその尺度で言うなら、TOEIC900で、どうにかやっと、というレベル。
ビール片手に字幕なしで映画を見てるなんてできない。最大集中だ。

 

TOEICの為の学習だけしかしてこなかった

 

スコアへの期待値と実力のギャップの原因として、もう1つは学習方法だ。

 

TOEIC700点でも、900点の人より流暢にベラベラ話せる人もいる。
一方で900点クラスでもカタカナ英語で、見ていてハラハラさせられる人もいる。

 

問題は、

 

何点か?

 

ではなく、

 

いかにしてそのスコアにたどり着いたか?

 

だと考える。

 

同じスコアでも、それまで歩んで来た学習のプロセスの違いによって、英語力にかなりの開きがある。
読み書きではあまり顕在化しないのだが、対面の会話や電話で圧倒的な差が露呈する。

 

特に、TOEICのスコアを伸ばす為だけに、TOEIC用の参考書だけを使って700点を超えたような人は会話での運用力が低い傾向がある。
言葉に詰まる。聞き返しが多い。意味を取り違えて会話が変な方向に向かってしまう。といった問題がある。

 

TOEICの、TOEICによる、TOEICの為の勉強でもスコアは700点くらいまでは伸ばす事は不可能ではない。
しかし、それだと実践で役に立たない。

 

履歴書にスコアを書きたいだけなら良いかもしれない。
しかし、英語を使って海外とやり取りをするような仕事では難しい、というのが現実。

 

 

As a Tool or Goal

 

TOEICの爆発的な普及によって、学生や社会人は英語学習に取り組み易くなった。
英語力を必要とした時、まず何よりもTOEICに取り組めばいいワケで、道筋が明確になったのだ。

 

しかし、そこにTOEICの抱えるジレンマがある。

 

それは、

 

TOEICのスコアを高める事が目的化している事だ。

 

TOEICはもともと英語力を計るツールだったのに、いつの間にか、目的になってしまった。
そりゃそうだ。

 

日系企業は殆ど英語で面接を行わない。履歴書に書かれたTOEICのスコアを見て推し量るだけ。

 

だから、

 

“あそこの大手企業が採用基準としてTOEIC◯◯点を課している”

 

“あそこの企業では課長の昇進要件にTOEIC◯◯点が課せられている”

 

といった情報が先行している。

 

こういった状況で、皆が「点取り」に走るのは当たり前なのだ。

 

そうすると何が起るのか。

 

当たり前だが、先ほどのTOEICのTOEICによるTOEICの為の勉強がメインストリームになる。

 

そうして「英語力の足りない」ハイスコアラーだけが造られていく。

 

 

パラドキシカルな正攻法

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さて、ここで1つ疑問が生まれる。

 

TOEICへの正攻法とは一体何のか?

 

単語帳を暗記し、公式問題集をやり、パート別問題集を潰していくのがベストなのだろうかー。

 

TOEIC至上主義では通用しない、とは言え具体的なスコアが無ければキャリアには何の役にも立たないのが現実だ。
とすれば、僕らはスコアと英語力の両方を伸ばさないといけない。

 

こう言ってしまうと「勉強の量を倍にしろというのか」と肩を落としてしまうが、実際は違う。

 

1つ有効なアプローチを挙げるならば、TOEICという試験対策を2つの要素に分ける事だ。

 

英語力と試験力

 

TOEICというのは非常にクセのある試験だ。
英語自体はそれほど難解ではないが、とにかくスピードと時間配分が要求される。

 

そこで重要となるのは、解答スキルだ。

 

・リスニングセクションでは各パートを1問何秒で解けばいいのか
・解き終わったら次の設問までのポーズで何をするのか
・文法問題は1問何秒で解けばいいのか
・長文は本文から読むのか、問題文から読むのか

 

これらは、練習を通してしか身に付かない。
裏を返すと数をこなすせば比較的短期間で身につける事ができる。

 

これが、試験力と筆者が呼ぶものだ。

 

そして、これこそが公式問題集やパート別問題集を使って鍛えるべき力だ。

 

一方で英語力というのは、もっと本質的なもので、言うなれば情報のインプットとアウトプットを速いスピードで正確に行う力であって、幅広い語彙知識、文法知識、明快な発音、リスニング力、ライティング力、スピーキング力といった色々な要素が複合的に織り合わさって成立する。

 

この部分はTOEICの問題集をこなしてもあまり身に付かない。

 

問題はこの2つの力をいかにバランス良く身に付けて融合させていくのかー、という事であるが、大半の人は試験力の訓練に時間を割き過ぎている。TOEICの問題集をやっている方がスコアに直結すると考えるからだ。

 

しかし、実は逆である。
試験力に偏ったアプローチは瞬間的にスコアを押し上げる事はできても、その先がない。
さらには、スコアの伸びに時間がかかる。

 

最短で、停滞期なくスコアを上げていくなら、まずTOEIC対策の学習をタイトにする事だ。

 

TOEICのスコアを上げるにはTOEICの問題集は一旦置いておく。

 

一見矛盾しているアプローチだが、効果は高い。
目先のテクニックにばかり目を向けていても、策に溺れるだけで本質的な力が身に付かない。
急がば回れ、なのだ。

 

 

自己目的化というエネミー

 

英語学習の敵は何だろうか?

 

筆者は少し前まで、「モチベーションの低下」だと考えていた。
ダイエットと同じで、継続が困難で多くの人が挫折してしまうからだ。

 

でも、よくよく考えてみると、本当の敵は「自己目的化」なのではないかと思うようになった。

 

英語というのは、その学習プロセスで常に「自己目的化」が付いて回る。
少し気を許すと途端に浸食されてしまうやっかいな存在だ。

 

本来の目的は、英語で仕事を行えるだけの力を身につけ、実際に業務を遂行していく事だ。
その為の成長度合いのスケールとして、あるいはそういった環境に転職などして身を置くための資格としてTOEICがある。

 

でも、実際には前述の通り、ある水準のスコアを取る事それ自体が目的となっている。

 

スコアだけにフォーカスしてしまうと、途端に、試験力志向の学習に走る事になる。
すると、結果が出ない。伸びない。モチベーションが下がる。そして挫折してしまう。

 

 

TOEICよりも広い視点で捉えると、英語上級者も自己目的化に簡単に陥る。
よく目にするのが、「英語を話すこと」が目的になってしまっている人だ。
外国人と英語で話す事が楽しくてベラベラと内容の無い事を連射する。
どこの会社の海外関連部署にも一人はいるのだけど、仕事の議論になると無口になり、食事の席ではやたらと喋る。
要するに、「英語を話してる自分」が好きなのだろうけど、大抵、仕事ができないし、英語もそれほど上手くない(笑)

 

英語学習では常に客観的な視点が重要だ。
いつの間にか手段が目的になってしまっていないかをチェックしないといけない。

 

スコア目的のアプローチは必ずスコアの停滞を生む。
筆者は大学2年生の時の730点から、段階的にスコアを上げた。
前回より下がった事は一度もない。

 

それは普段の学習からTOEIC本を排除したからだ。
問題集をやるのは、試験2ヶ月前になってから、という絶対ルールを敷いた。
何故なら、小手先のスキルを磨いてもスコアが上がらないからだ。

 

試験力とはいわば野球のフォームのようなもの。
セオリーとされる基本を踏まえフォームを磨く事は大切だが、それを支える筋力があって初めて威力を発揮する。
でなければ、速い球は投げられないし、打っても遠くに飛ばせない。

 

もしくは、試験力とは自動車に例えるならドライブトレインであり、英語力とはエンジンだ。
要するに試験力というのは、英語力というエンジンから生まれた力をスムーズにスコアに変換する為のトランスミッションの役割だ。
性能が良ければ、英語力をスコアに直結させられるが、性能が悪いとせっかくの英語力がいまいちスコアに反映されない。

 

試帰国子女のクセにTOEICを受けると何故か800点を切る事がある。
バカでかいエンジンを積んでいるのにトランスミッションの性能が悪く、ロスが多いのだ。

 

エンジンとトランスミッションは両方必要だ。
ただ、帰国子女ではない我々にとって、まず注力するべくはエンジンの馬力を上げる事に他ならない。
馬力あっての始めてドライブとレインの性能が生きてくるのだから。

 

550点を600点にしたり、600点を650点にするような事は試験力の改善だけで期待できるかも知れない。
しかし、800点、900点に届かないのは明らかに筋力・馬力の不足に他ならない。

 

そこを改善するには、もっと本質的な学習アプローチが必要だ。
それいは色々な手段があるが、ポイントは

 

1.発音の改善
2.音読
3.アウトプットの練習

 

である。
読むだけ、聞くだけのインプット偏重の学習は最悪だ。

 

特に発音に関しては、後回しというか、ほとんど練習しない人の方が多い。
とかく筆者のような30代、さらに上の世代は、学校で発音をきちんと習っていない(というか、音声学をきちんと身につけた高校英語教師が日本にはあまりに少ないので教えられない)。しかも、受験英語というペーパー試験を念頭にカリキュラムが組まれているので、発音の重要性を知る機会が無いままに大人になってきた。

 

受験生のように本屋で単語帳に手を伸ばすことから始める社会人が多いが、まずは発音からだ。
それだけで、成長曲線の跳ね上がり方が全く違う。

 

発音がどうして最優先事項なのかは、コチラで紹介しているので是非参考にしてみて欲しい。

 

↓ ↓ ↓

社会人の英語学習2.0 – 本当の英語耳を再インストールせよ

 

 

Keep your study tight

 

リーマンショック以降、特に英語の必要性が強調されるようになった。
当然と言えば当然なのだが、

 

景気が悪くなる→リストラが始まる・転職も厳しくなる

 

という流れの中で、「生き残るためのスキル」として英語はメディアからすれば格好のネタだったので、
「これからの時代、英語できないとマジでヤバい」という風潮を加速させた。

 

その結果、英語教材の業界ではTOEICバブルとも言える市場が出来上がったワケだけど、僕らとしては、その結果教材が充実した恩恵には授かっても、決して流されてはいけない。

 

頭に入れておくべきは、教材を売る側も必死だという事。
既にTOEIC関連書籍なんて飽和状態で、あの手この手で目を引く教材を乱刷している。
あるいは、過剰に不安を煽っておいてから、「でも、こんなに簡単に英語力が手に入ります」と言って売りつける。
それが英語教材の業界のやり方だ。

そうすると、学習者は教材選びに躍起になる。
コレがいい、アレがいいと色々と手を出してしまう。

 

だけど、大切なのは「どの教材を使うか」 よりも「どうアプローチするか」なのだ。
自分のアプローチに合っているか、という視点で考えると候補になる教材はかなり絞られて来る。

 

色々と手を出し過ぎると、アプローチが鈍り、全てが中途半端になり結果が出ない。
まず、前述のエンジンの部分を強化する学習を軸として、常に教材を持ちすぎない様にする。
自分の学習をタイトに保ちながら少しずつ、でも確実に伸ばしていく。そうすれば結果はついてくる。

 

 

P.S.

 

余談だけど。

 

最近、本屋にいくと、いわゆる「コンサル本」がめっちゃ置いてあるじゃない。
マッキンゼーとかボスコンを辞めた人が書いてるようなやつとか。
なんか、タイトルに”コンサル”って付けば売れる、みたいな感じで。

 

英語教材もそろそろ、そういう感じの本が出るんではないかと勝手に予測してる(笑)
“外資系コンサルタントに学ぶ1年でネイティブレベルを手に入れる英語高速トレーニング”

 

とか。

 

タイトル長いか。

 

売れるかな(笑)

 

 

売れねーか(笑)

 

 

ま、そんな悪書が売れてもらっても困るけど。

 

 

 

 

 

 

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